あかり描像のブログ

思ったことや学習記録を適当に書いていきます。お気軽にコメントください

読書するたびに母親のことが思い浮かんでイライラする

ほんとこの世の毒親とかいう理不尽な宿命はどうかして欲しい
【注】当記事はただの愚痴です


昔から私は母親に褒められた験がない。
寧ろ、自分より劣っている部分や欠点を見つけてはこれ見よがしに否定をして悦に浸る、そんな奴だった。


自分で言うのもおかしいが、私はそれなりに数学ができるやつだった。小学3年で中学の数学を終えてしまうほど*1
ところが、自分が 4, 5 年位になったとき、ベクトルという分野で初めて挫折を味わった。何度問題を解いても結局何がやりたくて何が行われているのか分からなかったのである*2

そんな私を見て、奴は「天才じゃなくて安心した」だとか「所詮は凡人だったのね」などと言ってくる。いやどんなに天才でも分かんないものは分かんないだろ。

まぁ、相対的にできる方であった方の数学については躓いた分野 (主にベクトルの出来なさ) を突いてくる感じであったが、あまりできる方の分野ではなかった文系科目についての私への否定の仕方は本当に酷いものであった。国語だとか社会だとか体育がそれである。
自分は学校から支給された (買わされた) 国語便覧で作家の生涯などについて読むのが好きだったのだが、そんなことは関係なしに「お前は国語ができない」「国語が嫌いなんだ」などと決めつけに掛かってくる。実態を見ろや。さっさと死んどけ。
社会もそこまでテストの点が悪かったわけではなかったのだが、それでも否定したかったのだろう (あるいは自分よりも優れていることを認めたくなかったのだろう)。

別に嫌いなわけではなくむしろ好きなもの (あるいは好きになりたいもの) に対しても「お前はこんなこともできないのね」などと言われてしまう訳で、こんなことでは旨い料理も不味くなってしまう。

こんなことを続けていくうちに、分からないことについて「分からない」と言うのが次第に恐怖になってゆき、知ったかぶりを装らないといけない強迫観念に苛まれることになっていくのである。こんなことをやっているようでは成長なんてする訳がない。精神衛生上も最悪である。ただの悪習だ。

自分は中学くらいの時にも両親にイライラし、「自分は国語力がない」と言いながら A4 用紙たっぷりに愚痴を書き殴って担任に見せたことがあるが、その時に「ここまで文章が書けるのだから別に国語力低くないよね」と言われたことが妙に印象に残っている *3
その時は特に深く考えることがなかったと思うが、今思うと自分ができないと思い込んでいたものは、すべて奴に「お前にはできない」と言われ続けたものだったということに気付かされる。何度も否定され続けたが末の思い込みだったのである。

奴は根本的に自分のことを認めて欲しいと思っている。
いや、それだけならまだ無害なのだが、自分のことを認めてくれないと徹底的に相手を否定しに掛かる。
相手よりも優位に立とうとして、周囲を徹底的に否定しに掛かる。とにかく最低なやつだ。

私に対する否定は読書にも及ぶ。
「本を読め」とは言ってくるが、奴がちゃんと本を読んでいるのは見たことがない。
それなのに、私が頑張って本を読んでいても、「本を読むのが遅い」だとか「読解力がない」だとか。本当に奴は否定することしか能がないのか。

これを大学進学で上京する直前の高校3年生の18歳の頃までずっと言われ続けてきたので、いつしか本を読むことが怖くなってしまった。
何とか本に向き合えたとしても、情景が頭に入ってこないだとか、内容が難解だとかで少し読むのが滞ってくるとまた奴の顔が思い浮かんでしまい、読書どころではなくなってしまうのである。

本当のところ、私は国語は好きだし、読書もできることならたくさんしたいと考えている。
こんな余計なことを考えず好きな本を好きなように読めている人がただただ羨ましい。


結局は脅迫で人を導くのは言語道断、まずは自身で行動によって示すのが一番だということだ。

そんなことも分からず徹底的に子供を貶しに掛かるテメェみたいな毒親はさっさと死んでしまった方が良い。死ね。

*1:それよりもできる人はいくらでもいるだろうが、そんなことを言っていてはきりがない。

*2:それもそのはず、高校のベクトルで最も重要なことは「平面上 (空間上) の任意のベクトルは一次独立な 2本 (3本) のベクトルによって一意に表現することができる」という事実一点だけ (線形代数では定理) なのだが、そのことが強調されている書籍がまったくなかったためだ。別に当時ベクトルに躓いた自分を正当化するつもりはさらさらないが、大学の数学で一番難しいのは結局のところ線形代数なので、その前段階のベクトルが分からんのは致し方ないだろうという点もある。

*3:その後、面談の機会を頂いたが、そこではありがちな感情論ではなく、実験的根拠のある認知心理学の講釈をしていただいた。ここまでしてもらえるとは微塵にも思ってなかったので、当時の中学の先生には今でも大変感謝している。